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岩手真宗会館発行の『菩提樹』
その中より記事を公開いたします。

2017年9月10日 

第130号

〈僧侶〉たちの物語① 「沙門」・・・・・国家からの脱出を求めて


 前号で考えたのは「僧侶の誕生」ということでした。僧侶といっても〝職業僧〟とは別のものです。今日的には「求道者」と云ったらいいのでしょうか。しかし求道といえば〝○道〟というような名告りは世の中にごまんとあります。そのような〝道〟と分けて「僧侶」と特定したのは、古代インドにおいて「沙門」と呼ばれた求道者たちの生き方に一つの典型をみるからなのです。日本でも沙門空海とか沙門道元と名告る「僧侶」たちがいました。 

沙門とは何だろう

◇明恵上人◇

 京都の北西、栂尾の山中に、高山寺を訪ねたことがある。玄関を入った正面に、明恵上人「樹上座禅像」(写真右)が掲額され、ガラスケースに国宝「鳥獣人物戯画」(コピー)が展示されていた。ずいぶん昔のことだ。今はどうだろう。  この樹上で座禅する僧が明恵房高弁。高山寺を中興開山し、また華厳宗の中興の祖と讃えられる。承安三(1173)年、奇しくも親鸞と同年の誕生である。
   

◇遁世ということ◇

 明恵は16歳の時東大寺で具足戒を受け出家。仁和寺で真言密教を、東大寺で華厳宗・倶舎宗の教学や悉曇を、禅を栄西に学び、将来を嘱望されたという。  ところが、21歳のとき、朝廷の法会への出仕を拒み、やがて俗縁を絶って紀伊国白上に遁世した。明恵は高山寺を開山すると、その名声を聞いて多くの弟子たちが集まるが、後を高弟に託して遁世。出家して後、朝廷との関係(俗縁)を離れて遁世するという。「出家」ってなんだろう。
   

◇三つのもとどり◇

 覚如の『口伝鈔』の中に、鎮西の聖光房の話が出てくる。  聖光房は鎮西(九州)の〝善導流〟の念仏者として名声を得ていた人で、後に浄土宗の第二祖に擬された。『口伝鈔』には、法然との邂逅譚が皮肉めいた口調て紹介されている。
 三年ほど法然の膝下にいて研鑽した聖光房が、故郷に帰りたいと挨拶して法然の下を去ろうとした時のこと、「あたら修学者が、もとどりをきらでゆくはとよ」とつぶやいた法然の言葉に疑念を挟み、すでに出家してもとどりを切った身である私に、今の言葉は聞き捨てできない。どのようなことかと詰め寄った聖光房に、法然は、
「法師には、みつのもとどりあり。いわゆる勝他・利養・名聞、これなり。」
と語ったという。
 出家してなお「勝他・利養・名聞」のこころを離れられない。今風に云えば、〝娑婆っ気=世間心〟が廃らないということだろうか。「世間心」が廃らない限り、私たちは輪廻転生し続けることになる。これでは出家したってダメじゃん!ということになる。
 筆者も14歳で得度したんだから一応〝出家〟なんだね。「世間の道理」を離れ、仏陀の弟子として涅槃道を歩む。しかし、76歳になる今日まで、私の心を支配して止まなかったのは「勝他・利養・名聞のこころ」だった。東本願寺教団は、結構、この「名聞心」を満足させてくれた。でも、後に残ったのは空しさだね。
 曽我先生と金子先生が「私たちは〈博士〉にならないでおこう」と語り合っていたという話を聞いた。漱石に「博士」辞退問題がある。博士を辞退した漱石に、世間は好意的だったようだ。世間の人々は〈博士〉の正体を知っていたのだろう。漱石の話は、百年以上経った今でも話題になっている。
 「遁世」=「遁」は〝のがれる〟「世」は世間。世間から遁れる。出家も「出世間」だから、「出家」も「遁世」も同じ事なのに、「出家遁世」と同義熟字を重ねて表現するのは、求める意味を強調しようとするからだろうか。逆に言えば「難事」であることのしるしかもしれない。

◇法然の出現、そして論難◇

 保元(1156)・平治(1159)の乱に始まる公家社会の衰亡。平安のはじめから三四六年間行われなかった死刑が、武士の台頭によって復活するなど、社会は殺戮の様相を強めるころ、それまで公家社会を支えてきた「王法(朝廷)仏法(南都北嶺)相依体制」が力を失い、宗教社会に革新の動きがある。明恵は、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならんで鎌倉新仏教の立役者で、栂尾・高山寺を開山(1206年)すると共に、「華厳教学の研究、坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した」(ウィキペディア)。  一方、同じように鎌倉新仏教の立役者とされる法然房源空(写真上)は、念仏易行道を称揚し、承安5(1175)年「浄土宗」を立教開宗。明恵や親鸞の生れた翌々年のことである。建久9(1198)年『選択本願念仏集』(『選択集』と略称)を著述。親鸞が法然の許しを得て『選択集』を書写したのは元久2(1205)年のこと。
 建暦2(1212)年1月25日、法然は80歳で没したが、没後間もなく『選択集』は木版刷りで開版(写真右)発行された。
 明恵は、念仏易行道に深い関心を示し、法然に対しても尊崇の念、篤いものがあったが、『選択集』の版本を読んで、「①仏教の基本中の基本である菩提心を不要としている ②聖道門を〝群賊悪獣〟扱いにしている」とみて危機感を感じ、『選択集』を論破する書『摧邪輪』(邪輪を摧く)『摧邪輪荘厳記』を書き、批判を展開した。法然没後のことである。
 この後、『選択集』は「謗法の書」とされ、長い間に渡って念仏教団は国家(朝廷や南都北嶺)による弾圧の対象となっていった。嘉禄3(1227)年、法然17回忌に起こった事件に至っては、天台宗側から、版木と版本の焼却、念仏の禁止に加え、法然の墳墓を破却し遺骸を鴨川に流すよう朝廷に訴え出るという事態になった。
 親鸞の著『教行信証』は、この明恵や南都北嶺の論難─「菩提心を無用とする」とみられたことに対する回答─、「誓願一佛乗」─他力回向の菩提心・浄土の大菩提心をもって、凡夫直入の仏道の成就を論証したものと云われている。

   

対立と憎悪

◇対立を生んだもの◇

 それにしても、と思う。  中国の長~い歴史は多民族による支配―破壊と創成の歴史だった。支配者にとって有害と思われる思想は、根こそぎ排除される―焚書坑儒―歴史を繰り返してきた。私たちが若い頃、「文化大革命」なんてのもすごかった。毛沢東思想が正義で、これに合わない考え方が排撃された。
 日本では顕著に表れることはなかったが、二回だけ起こった。法然の念仏易行道に対する弾圧と、明治初年の廃仏毀釈である。両事件とも、時代の転換点で起こった〝仏教弾圧〟だった。
 承元1(1207)年の法然教団に対する弾圧は、四人の僧を死罪にし教団の主・法然と、おもだった弟子たち七人を遠流にするという、長い「律令体制」の歴史の中でも特異な出来事であった。当時の支配側の記録には、僧侶を死罪にすることへの危惧が強く表れている。それでも断行したのは、〝くに〟の支配の根幹に触れる出来事―放っておいたら危ない、という支配者の危機感があったからではないだろうか。「嘉禄の法難」では、隆寛など三人の高弟が遠流に処されている。

◇対立の根源◇

承元の法然教団弾圧の引き金になった「興福寺奏状」はその冒頭で、日本の仏教は八宗(法相・倶舎・三論・成実・華厳・律・天台・真言)のみで、新たに立宗するにしても朝廷の勅許を得るのが道理であると主張している。  日本の仏教が「廃仏派」との抗争を経て、国家鎮護と民衆慰撫の役割を担って受容された経緯を見れば、平安末期までの仏教は国家と分かちがたく、僧侶もまた国家制度に組み込まれた「官僧」だったのだから、この主張は当時の〝常識〟だったのだろう。
  同時代、栄西によって招来された臨済宗も〝新宗〟だったはずだが、法然の浄土宗が弾圧の対象となったのは、法然の仏教が、国家仏教の枠を超えて大衆の宗教的要求に応えるものだったからではないだろうか。
 奈良朝以来、五〇〇年続いた律令体制下の公家文化が終わり、武士の台頭による武闘社会が始まっていく頃、〝国家〟に対峙する〝個〟が芽ぶき始める。(続く)