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岩手真宗会館発行の『菩提樹』
その中より記事を公開いたします。

2006年5月1日 

第99号

20年周年を期して始まる親鸞の道への旅


かくして、真宗会館20年の幕は降ろされ、そして、新たな旅への歩みを始めた。ネバー・エンディング・ストーリーの第2幕…。

 
 私は長い間、宮沢賢治の宗教的選びをどう受け止めるかで迷い続けてきたが、最近、一つの確信めいたものに出遇い得たように思う。賢治が突きつけたものは、〈暁烏的な真宗〉への離縁状だったのではないか。
 会館では十数年にわたって「大経」の学びを続けてきたが、それを通して出会った親鸞は、じつにみずみずしく、生き生きとした宗教心を保ち続けた人だった。その末裔が何故、賢治によって、「無気力な真宗」と批判されなければならない体たらくを託つようになってしまったのだろうか。
 
 長い間、真宗人を〈空気〉のように覆い包んでいたのは「真俗二諦」とよばれる教学だった。この考えに親鸞は立っていない。
 それなのに、なぜ、〈世間と内心〉を分けるような、実に奇妙なダブルスタンダードを「宗風」として顕揚し続けてきたのだろう。それのみか、明治以後の神聖国家体制下になると、〈内心〉をも天皇教(「教育勅語」)に譲り渡し、本願の精神を忘れ、国家主義に迎合して、多くの門徒大衆を戦地に送った。それはもはや、〈真宗〉とは言えない教団であった。敗戦後60年、このような教団の歴史にピリオドは打たれたのだろうか。
 私たちは、勇気を持って歴史を検証し、様々な夾雑物を払いのけて、親鸞の出会った「本願」との邂逅を果たす旅に出よう。
 
 敗戦後60年を経て、戦後の〈欧化主義〉への反省が〈日本再発見〉へと向かっているように見える。
 この国は、これまで、〈鎖国〉という手段を行使して〈何か〉を守ろうとした歴史を持っている。平安時代の遣唐使廃止による〈鎖国〉。江戸時代の初め、キリスト教禁止を名目にした〈鎖国〉などはその顕著なもので、それぞれ、権力構造を堅固にする一方で固有の文化を開花させた。最近、日本文化への評価が目立つが、そのような文化が創造された裏に、社会の閉鎖化と同時に差別構造の固定化が図られたことを忘れてはならないだろう。
 ともすると、ナショナリズムに結びつきやすい動きは、武力を持って他国を侵犯することを厭わず、こうした行動を英雄視する危険な思潮を生み出す。
 私たちは、〈閉じられた社会〉の演出に力を貸した歴史を持つ本願寺教団に連なる者として、そのような選びをなぜしてしまったのかを懺悔しつつ、問い続けなければならならない。このような流れを直視しながら、「開かれた自己」を確立し、どこまでも、「開かれた社会」を希求しよう。
 
 説教場以来の真宗会館が、〈寺檀制度〉という、近世以来続く日本仏教の特殊性からの脱却を指向してきた歩みに間違いはないと思う。
 真宗会館が市民の〈ひろば〉としてその真価を発揮するのは、まだ先のことだろうか。歩みは遅々として、いまだ途上である。
 21年への〈歩み〉は今始まったところだ。
 
   2006年5月1日
        館長  丸田 善明













◇浄土は何処に◇

三年ほど前のことです。北海道深川市周辺のお寺の報恩講に巡講したおり、留萌の近く、かつて鰊漁で栄えた花田家の番場─博物館風に保存されている─に立ち寄ったことがあります。駐車場の先、折しも観光用に作られたゲートの向こうに広がる日本海に、太陽が沈もうとしていました。ゲートの下に寄り添う若者が印象的でした。  太陽が沈みゆく西方に「浄土」がある。
 長い間、仏教徒はそう想ってきました。だけど、今はもうないのじゃないでしょうか。「ご来光」はありがたがられますが、日没には注意を払わなくなりましたね。日が暮れても、人工の太陽が街を照らす時代です。いつの間にか日が暮れている。あぁ、もうこんな時間か…、というわけです。
 同時に、いのち終わったら〈お浄土〉へ、という考えも消えました。今は、お星さまになり、天国に行くのです。
 改めて考えてみれば、人間は、昔から〈ご来光〉を拝み、一日の平安を祈って生きてきたのじゃないでしょうか。苦を嫌って楽しみを求め、〈不老長寿〉を願いながら、意に逆らって〈兵士〉にされたり、誰のために使われているのかわからない〈税金〉を「国民の義務」だとしてむしり取られ、そのうちに老い、人生ってこんなものだったのかと慨嘆しながら、孤独のうちに死んでいきます。
 後に残った者は、「天国のお祖父ちゃん、安らかに眠ってください。そして私たちをお守り下さい」だなんて、眠れるのかと思ったら、眠る暇はなさそうなことを臆面もなく要求してにぎやかにお葬式をし、「祖父ちゃんも仕合わせな人生だったのさ」などといいながら酒を酌み交わしている。現代人の人間観が垣間見られる一こまです。
 
  浄土は我等の願うところではない。
  ただ、如来の願い給う境地である。  
             金子大榮
 

   

◇暗中模索の人生◇

   日本人って〈一所懸命〉とか〈ガンバル〉という言葉が好きなようですね。病気見舞いに行っても、「じゃぁ、がんばってね」などと言います。以前、手術を受けたことがありますが、手術室に運ばれる時、看護師さんたちが、「がんばってね」と声を掛けてくれましたので、「麻酔されて、どうがんばればいいんだね」って言ったら、「じゃぁ、なんて言えばいいのよ」と言い換えされたことを思い出しました。
 きっと多くの人は〈頑張ったら何とかなる〉と思って生きています。子どもを励ます時でも、この言葉が出てきます。そうならないのは〈がんばり不足〉だと言うことになり、いっそう落ち込むことにもなると言います。一方では、頑張ってどうなるものでもない、という人がいます。これは、きっと、経験からの言葉でしょう。あなたはどうでしょう。いずれにしろ、〈暗中模索〉の日々であることは間違いなさそうです。
 
 加藤介春という詩人の詩に、つぎのような作品があります。
 
 後ろ
      加藤介春
 
 背中には
 なにかしら
 書いてあるような気がする
 
 わたしにはその文字はわからぬ
 しかし私が生まれるとすぐに書かれた
 わたし自身の番号のような気がする
 
 そうだ わたしの生の番号かも知れない
 否 それは死の番号かも知れない
 
 わたしにはただ
 不思議な「夜の詩」のような気がするが
 まだ読んで見たことはない
 
 何故なれば そこは私の知らぬところだ
 魂のちょうどうしろだ
 外だ──
 
 そしてあまりに遠いから
 暗いから
 
 
 加藤介春は福岡県出身、野口雨情などと同世代の詩人です。この詩には、〈暗中模索〉の正体が詠い込まれています。その正体を、同時代を少し早く生きた清沢満之は、「自己とは何ぞや」と問い、これこそが人生の根本問題なのだと明示しました。

   

◇世界ぜんたいと私◇

満之によって〈根本的問い〉とされた「自己」は、他者との関係の中で、〈(だます、ごまかす)〉したり〈疎外〉の感情に陥ったりすることがあります。その〈瞞着〉を現実の裡に見続けた宮沢賢治は、  
 おれたちはみな農民であるずいぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい/われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あった/近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸 福にならないうちは個人の幸福はありえない /自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する/この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか/新たな時代は世界が一つの意識になり生物となる方向にある/正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである/われらは世界のまことの幸福を索ねよう求道すでに道である
      (「農民芸術概論綱要」原文旧かな)
 
 と宣言しました。1926年、12月に昭和と改元される年のこと。農民労働党の結成。娘たちの出稼ぎが社会問題となり、ゼネストや小作争議が各地で戦われ、治安維持法が威力を発揮していくころのことです。
 これに先立つ22年には、部落解放運動の先駆けとなる「水平社」が結成され、
 
人の世に熱あれ
人間に光あれ
 
 のことばで結ばれる「宣言」を発表。その趣意書には、次のような文章があります。
 
  吾々は大胆に前を見る…。水と火の二河の向こうによき日が照りかがやいている、そしてそこへ吾等の足下から素晴らしい道が通じている。
  水火を恐れぬ堅固なる信者よ、無碍の一道だ。
  吾等の前に無碍道がある。

   

◇佛道の再発見へ◇

「親鸞」の名に胡座をかいてうそぶいていた末裔=本願寺教団に突きつけられた「水平社宣言」は、長い間、この国の権力と同調して、御同朋を差別し、貶めてきたことへの〈如来の糾弾〉でした。この糾弾は、15年戦争に敗北した後、「信心回復運動」として展開してきた同朋会運動のさなかにも続いています。末裔たちは何を取り違えたのでしょう。  
  釈迦如来かくれましまして
    二千余年になりたまう
    正像の二時はおわりにき
    如来の遺弟悲泣せよ   (正像末和讃)
 
 釈尊(おしゃかさま)がおなくなりになって二千余年、インドのみならずこの日本でも仏陀の精神は隠退して〈五濁悪邪〉の世。その中で〈毒蛇悪龍〉を生きる私たちに、親鸞聖人は「悲泣」を促すのです。それは、〈証道〉を見失った社会に、〈世界ぜんたい〉の人々の平等にたすかりゆく道として「浄土の真宗」という佛道が明らかなったことを闡明することでもありました。
 釈尊は35歳で〈さとりを開いた〉といいます。「この〈いのち〉は我がものではなかった。〈自他共なるいのち〉であった」と、〈いのちの真実〉に気づいた時、〈我がもの〉という思いから解放され、〈まことのいのち〉を生きる者になったということです。
 その〈気づき〉によって得られた〈こころ〉の広やかさによって、様々の〈いのち〉が見えてきました。喜びのいのち、哀しみのいのち…。特に釈尊を悲しませたのは、生まれながらにして差別され、牛馬のごとく使役される民衆のことでした。釈尊は、
 
  人は生まれながらの〈尊卑貴賤〉はない。 
  もしその人を〈尊い人〉というなら、
  それはその人の生きざまによるのであり、出自によるのではない。
 
と語ったと伝えられています。実に端的にして明快ですね。神話や権力者の恣意で作られた構造的差別社会の中で、ことに支配階級の青年たちに語ったというところに、この言葉のもつ社会的意義があります。徳仁皇太子やチャールズ皇太子に語ったようなものです。聞いていた仏弟子にとっても、驚きに満ちたことだったのでしょう。だけど、その後の仏教はそこに止まってしまったようです。
                   (次号へ続く)