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岩手真宗会館の紹介

 
 明治憲法施行と時を同じくして創設された大谷派盛岡説教場は、1986年、現在地に移設されて岩手真宗会館を名告り、寺檀制度を超えて新たな仏教徒の交わりを開く〈ひろば〉となることを願いとして運営されている。毎月、経典学習会・写経塾・市民仏教セミナー・仏教讃歌の集いなどが開かれ、仏教の教えを市民に広開するほか、電話や面接により、信仰や仏事、教育など生活上の様々な相談を受けている。  2003年には「現代宗教研究所」が設置され、現代の宗教事情について研究し成果を公開している。

ところで

会館境内に足を踏み入れると、右隅に枝を広げた大木が目に入るだろう。〈六日町の説教場〉にあった二本の菩提樹のうちの一本だ。ブッダ正覚の故事になるインド菩提樹ではなく、「センダンバノボダイジュ」という。和名〈ムクロジ〉。実は念珠の玉にした。もう一本は、旧地の盛岡市保険センターで、今も葉陰を広げている。

館内講堂正面に掲額されている「巌鷲法城」は、

大谷派本願寺初代寺務総長で連枝の大谷勝縁の筆跡。「巌鷲」は岩手山の異名。岩手における仏法興隆の城であれという願いが込められているようだ。

岩手真宗会館の由来と歴史

 
 岩手真宗会館は、1890年、大谷派本願寺によって盛岡市六日町(現肴町)に創設された「盛岡説教場」に始まる。用地は佐藤庄助と池野権治、建物は池野籐兵衛ら28人の寄進。本山派遣の「在勤」と、小野慶蔵や村井弥兵衛など財界の重鎮が本山委嘱の世話方として運営にあたり、門首や連枝の親教、布教使の説教が行われる等、地方教化の中心施設として大きな役割を担った。    大正期、林正観が在勤に就任。「仏教青年興徳会」に多くの青年達が結集して興徳会館を建設。少年部が結成され日曜学校が開設された。昭和期には、清水凡禿が聞法誌『聞光』を刊行、多くの誌友を得て一時代を画した。    この間に「盛岡仏教会館」と改称。日米開戦の年、主管者に就任した高木信教は、戦中戦後30年間にわたり教化活動を展開、みのり幼稚園を開設して幼児教育にも挺身した。    1986年、盛岡市東仙北に移設して「岩手真宗会館」と改称。館長に丸田善明を任命し、北東北開教の施設として再出発した。