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写経塾

 
 
 「写経」とは文字通りお経を書写することです。
 
 仏教の歴史をさかのぼってみると、初めのころ、お経は暗唱によって伝えられたようですが、次第にシュロの木の葉や、樹皮・紙などに書写されるようになったといわれます。
 
 『法華経』には「若しまた人あり、妙法華経の乃至一偈を受持し読誦し解説し書写し、この経巻において敬い視ること仏の如くし、……合掌恭敬せば、……是の諸の人等はすでにかつて十万億仏を供養し、諸仏のところにおいて大願を成就し、衆生を愍むがゆえに、この人間に生ぜることを」、と写経を勧め、その功徳を讃えている等の影響で、盛んに流行するようになったと言います。
 
 中国では、お経の翻訳事業が国家規模で行われたということもあって、法華経に限らず、写経はたいへん盛んに行われ、『一切経』がたくさん書写されました。ただ、これは、翻訳経典を広めるための実用的なことも絡んでいたようで、後に印刷技術が進歩しますと衰えて行きました。
 
 日本における写経は、天武(白鳳)二(六七三)年三月、天武天皇が飛鳥の川原寺で書生を集め、『一切経』を書写したのが最初だと『日本書紀』にあります。その後、奈良時代になり、官営の写経所が構えられ、主に『法華経』や『最勝王経』を書写することが行われたといいますが、天平以後、東大寺写経所が勢力を持ち、『一切経』の写経に力を入れたといいます。
 
 日本での写経の特徴は、仏教が振興するなか、『一切経』の需要に応じて行われる一方で、「写経の功徳」に対する信仰を生み、国家の鎮護、先祖父母の菩提、自己の福利の増進の祈願に重点があったようです。ですから、権力者は金銀財宝をつぎ込み、競って華麗な経巻を作らせました。今日厳島神社に残る「平家納経」などはそのよい例でしょう。その後、写経の習慣は衰微しましたが、「写経の功徳」に対する信仰は今日なお根強く行われているようです。
 
 親鸞聖人の明らかにされた「浄土真宗」は、「写経」によって功徳を願うという考え方を「雑行・雑修」として退けます。どんなに精魂をこめて書写し、仮に家財を傾けるほどに金銀で飾り立てたとしても、仏様になること、「浄土の業」にならないのは当然のことでしょう。境界が違うからです。「ガンバリズム」は、娑婆では通用してもお浄土の生き方ではないのです。
 
 じゃぁ、真宗会館では、何で「写経」なんかしているの。きっとそのような疑問が湧いてくるでしょう。
 
 
 
 
 

 
 オウム教問題を見ていて、日本の伝統仏教が狂信的にならないで来たのは、中国を経由した仏教だったからだと気づきました。オウム教が標榜するチベット仏教は「密教」だといわれていますが、それは多分に「体験主義」に陥りやすいものをもっているのでしょう。それに対して、中国仏教は「言語」仏教(顕教)だといわれますのは、中国が「言語文化」の国だったからだと思われます。長い時の間、中国人は根気強くインド語の経典の翻訳に努めてきたのです。それは、経典の孕む精神をどのような言語で表現すればいいのかという、それこそ血の滲むようないのちがけの事業でした。そうした歴史が、「経教は鏡のごとし」(善導大師)と言わしめたのでしょう。
 
 中国から伝来した日本仏教は、まずその文字を丹念に尋ねて、その含意するところに出会おうとしました。これは親鸞聖人の学び方でもあったのです。
 
 ところで、論理性・合理性を尊ぶ中国人に対して、日本人はどちらかというと感性的なものを好みます。表現についても、「文字」よりも「ことば」を重んじる傾向があります。「言霊」信仰の現れる所以です。ですから、お経についても、その意味内容より〈響き〉を重んじたのでしょう。日本仏教がお経の翻訳に消極的だったわけは、こんなところにあるのかもしれませんね。しかし、こうした仏教への関わり方が、本来の精神を見失わせていることは間違いありません。
 
 
 
 
 

 
 
 日本人の識字率は、ほぼ百パーセントに近いと思われます。それが新しい宗教の迫り方になってきました。真宗門徒でも、最近では「真宗聖典」をもって聞法する人が増えてきています。高い学習意欲は、意味不明なものを〈有難い〉とは、もはや思わないようになったきています。むしろ、「読経」を退屈の第一にあげるような国民意識です。
 
 「写経」はもともと「毛筆」でお経を書写するという、きわめて日本的な(もちろん源流は中国大陸にあります)文化でした。この「毛筆文化」は、筆ペンなどの発明で、さらに身近になってきていると思われます。
 
 〈仏教の本当の精神を知りたい〉+〈毛筆文化〉=〈真宗の写経〉
 
ここに真宗会館が提唱する新しい「写経」の意義があります。
 
 真宗会館の「写経」は、お経の文字を書写することで、いっそう深く「おみのり」に出会おう、ということを願いとしていますから「納経」などということはしません。